ピルロのキャリアについてご紹介してます。
地元ブレッシャのジュニアチームへ入団、12才にして将来を嘱望されるポテンシャルの高さを見せる。
1995年5月21日レッジーナ戦にてセリエAデビュー。
このシーズン、チームはB降格、更に翌シーズンは出場機会に恵まれず不本意な時期を過ごす。
翌96-97シーズンには17試合に出場、チームのA復帰に貢献。
97-98シーズンには監督がフェラーリオに代わり多くの出場機会を得るようになる。通算29試合4得点、その能力の高さを証明しインテルへ引き抜かれる。
インテルに加入、18試合に出場するもスタメン出場は 3試合のみ、「ネクストバッジョ」と呼ばれるもその才能を持て余す結果に終わる。
シーズン途中にレッジーナにレンタル移籍。同郷のバローにオと共にレッジーナにて活躍をしチームのA残留に大きく貢献する。
Uー21欧州選手権メンバーに選出され、予選9試合6得点の活躍で本大会出場に貢献、スロバキアで開催された本大会では エースナンバー「10」を付け、優勝に大きな役割を果たした。
シドニーオリンピック代表メンバーに選ばれ、ベスト8に進出。
00-01シーズン途中には再び出場機会を求めてレンタルにてブレッシャへ。
R・バッジョのサポート役、そしてボランチとして新境地を開く事に成功した。
ライバルのACミランに移籍
ACミラン移籍1年目も、同ポジション(トップ下)にルイ・コスタがおり、またテリム監督の構想外であり、試合出場も殆どなかった。
U-21欧州選手権にも出場。準決勝にてチェコに敗れる。
カルロ・アンチェロッティが監督に就任。
出場機会を求めてピルロはアンチェロッティに自分を中盤の底での起用を直訴する。
アンチェロッティは、ある試合でピルロを中盤の底で先発出場させる。(故障でメンバーがいなかったため試したという話も)しかしこれが大当たりする。
元々持っていた高い技術力で中盤の底から正確なパスを供給し続けるレジスタとしての適性を証明し、ACミランの司令塔としてゲームをコントロールする。
また活躍が認められ2004年欧州選手権予選初戦となる2002年9月7日アゼルバイジャン戦にてA代表にデビューを飾る。
守備力にさらに磨きが掛かり、最多の31試合に先発出場し自身初のスクデットを獲得する。
2004年欧州選手権にも出場、イタリア代表でも地位を高めめつつある。
またオーバーエイジ枠でアテネオリンピックにも出場。銅メダル獲得に貢献。